加藤大治郎

今年は鈴鹿のGPがないから、なんか感覚がずれてくるが、
加藤大治郎が死んでから1年が経つのか。
講談社から加藤大治郎と言う単行本が出ていて
本屋でそれを今日見つけて、今まで読んでいた。
感動をありがとう、なんて帯がついていたが、実際大治郎がみんなに与えたものは、感動とはちょっと違うものだっただろう、と思う。
感動、というよりは、ただただ残念。私はそう感じる。丁度大ファンだった松田優作が死んだ時と同じ感じだ。
オートバイロードレースの最高峰クラスでチャンピオンを取れる、類稀な才能の持ち主だったと思う。今後何年か、あるいは十何年、大治郎を超える才能をもつライダーは日本から出てこないだろう。サッカーの中田が世界に通用するアスリートと日本人は考えているようだが、比較できるものでもないが大治郎の世界に対するレベルは、その比でない事は確かだ。

彼の死をセンチメンタリズムで飾るのは簡単だが、自分自身、個人としてそれをどう受け取るか、微妙な問題だ。レースをしているわけではないが同じライダーとして。
正直、彼のクラッシュからしばらく、私はバイクに乗るのが怖かった。丁度彼と同様、その数ヶ月前に初めての子供がうまれたばかりだった。そして大治郎のWEBサイトにアクシデントの後も掲載されていた彼の日記に書かれた、生まれたばかりの娘に対するコメントが、より私がバイクに乗ることを躊躇させた。そして、全然関係ないかもしれないけれど、毎日家に帰って、娘を抱っこできると言うことがどれだけ幸せかを噛み締めていた。

こんなこともあった。アクシデントのあった鈴鹿のグランプリの夜に、とあるバイクファンサイトの掲示板に「あるつてで情報を入手しました、加藤選手のご冥福をお祈りします」なる書き込みが管理人によってなされていた。公式の発表では死亡は報告されていない。私を含め、それを見た何人かが管理人につっかかり、馴れ合いの掲示板住人たちは、必死で防戦?していた。私もそのサイトは自分が乗っているオートバイの車種のサイトであり、何度か書き込みしていた。だからと言って、物知り顔で死んでもない人のご冥福をお祈りされてはかなわない。私は大治郎の知人でもないが、一時期WGP関連の仕事をしていたこともあり、全く関係ない訳でもない。
ネットでのコミュニケーションは難しい。傍観して何もしないのが一番のコミュニケーションであるかのような風潮があるような気もする。確かにそれが正解かもしれない。でも、黙っていられなかったから、噛み付いた。
今日本を呼んでわかったのだが、大治郎は病院に搬送された時点で脳死状態だったらしい。その情報を入手して、ご冥福の件になったのだろうがそれはないだろ。

そのサイトはその後巨大掲示板に晒されたりしてしばらくてんやわんや状態だった。私自身も久しぶりにネット上で熱くなった。許せないものは許せない。

そうか、あれから1年か。

私と世界は、大治郎が死んだと言う現実を、どう消化しているのだろうか?